【2元論】実は私たちは「良い悪い」のない平面世界で生きている。【自我の崩壊】

認識の変更

みなさまこんにつわ。

ヨナです。

突然ですが
私たちは「良い・悪い」のない平面世界で生きています(私の見解)

平面世界です。立体だと思っているその目の前に広がる映像。

私たちが「現実」と呼んでいる映像。これはただの 平面映像。2D。投影。漫画と一緒。テレビの中の映像と同じ。
そして、人間である私たちの目があるであろう場所から視覚で捉えられる部分、四角なのか丸なのかその枠内しか確認できない平面世界です。

そこに「自我」という「個」が一生映像にアフレコしているのが私たちの毎日、人生。

これは車。これは会社。これはいちいちムカつく先生。これは自分を助けれくれる親友。
これはちょっと抜けてる彼氏。これは浮気して捨ててやった元カノ。

ただの平面図である無機質な目の前の平面映像に、自分独自の世界を上からフィルター掛けてるわけなんです。自我という実体のない記憶の塊の存在が「文字」を一生乗せ続けている。

私がよくいう、ドラ○ンボールの明師匠が平面絵に付け足す吹き出しのテキストです。

よくわからない方はこちら一読くださいまし。

じゃあ、そのただの平面図・世界に「望まないテキスト」を貼り付けるドM行為なんてする必要がないんです。

そもそも、この考え方でいくと、毎日が妄想のオンパレードで生きてる。

「個」が記憶を元に「真実」だとしてる妄想をひたすら平面世界にフィルターかけてる。


この世界は2元の世界。

自我(個)が存在している以上は比較する何かがないと、概念として「それそのもの」や「自分」が存在できないので、どうしても「2元」の考え方になってしまいます。

黒が存在するには白が。

上が存在するには下が。

表が存在するには裏が。

男が存在するには女が。

私が存在するには他人が。

必要なわけなのです。

ここからは私の感覚を言語化してるので、わからなかったらスルーしてほしいんですが、0があって、−100(裏)があって、+100(表)がある。数値はなんでもいいんですがね。

私たちは常に0にいるんですが、自分(自我)の周りにはたくさんのマイナスとプラスの数値の概念がある。
人によってはマイナスを選び続け、また違う人はプラスを選び続けたりしてるんです。

あなたが「幸せ」(+)を感じるためには「不幸」(−)という概念が存在してないと感じれないんです。
幸せしかなければそれは「幸せ」ではなく「普通」(0)でしょ?

よく「失って初めて大切さに気づく」っていいますもんね。

比較する何かがなければ、それは0ポイントなんですよね。プラスでもマイナスでもない。ゼロ。

そのプラスとかマイナスとかの振り幅を楽しみたくて、私たちは「個」という存在を楽しんでる。

ただ、「個」はどうしても「プラス」「マイナス」という言葉に「良い」と「悪い」というジャッジをしてしまう。

なぜなら「体験したくない方」「体験したい方」という、自分が「体験」するべき「事象」にふるいをかける方法がその「感情」になるからです。

そこに「個」が介入してこない平面図は、良い悪いのジャッジがないのでただの「起こり」なんですよ。

その「起こり」をただ私たちは自我の感情というナビゲーターに合わせてチョイスして好きな方を体験して生きているだけなんです。「起こり」が在るからこそ、「体験したい」ものを選択をすることができる。

全てがある世界で、フォーカスしているものを映像や平面世界に顕現することができる。

何か一つの概念を知っているということは、相反するものも存在するということ。

2元でなければ「何もない」んです。

選ぶだけ、決めるだけ、とも言いますよね。
そして全て在る。全てが在るんです。

「ない」と思うのは、自我の「物質次元」という立場にいて、物質化していることが「在る」だと思っているから。在るってそういうことじゃない。

ここに、そこに在るのに、自我が「ない」と判断するから「ない」が現れてる。

明師匠は「悟空にどんな経験をさせようか」という「起こり」の視点でシナリオを書いてますが、悟空個人の目線から見ると「クリリンが死んでしまうこと」というのはとてつもなく苦しくて許せなくて怒りに震える出来事だと思うんです。(ストーリー知らない人すみません)

でもそれを体験したくないのであれば、悟空が明の目線を持ってそれを「チョイス」しなければいいだけ。

「これは流石に酷いストーリーだからやめとこうかな?」

って構想段階で物語に反映させることを却下すれば良いんです。

「そうなってしまったらどうしよう」

という恐怖の感情はとてつもなく恐ろしくて、居ても立っても居られなくなりますが、、浮かんでくる「思考」というのは、「ただの刺激」「反応」「もう一つの可能性の浮上」の瞬間であって、体のどこかをつねると「痛い」と感じるレベルでの反射と同じことだと思っています。

繰り返し湧き上がってくる「不安」や「恐怖」の思考は、常に「はい・いいえ」のポップアップが出てくる仕様になってると思いましょう。

記憶って不思議で、覚えているものもあれば覚えていないものもある。
30歳生きたとして、生まれてこの方1分1秒のことを30年間分全て覚えている人なんていないわけで。

「重要なことだ」と思っていることしか覚えていないもんなんです。

でもそれも、過去の起きたことは記憶でしかないので、それが本当に起こったことかなんて確かめようがないこと。

そんなよくわからない「刺激」はポイ捨てしましょ。

ちょっとまた色々脱線してしまった。。

感覚のままに書いたので、よくわからなかったらごめんなさい。

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